池袋ジュンク堂書店トークイベント 2019年10月9日(水)19時~21時
平成文学の三十年を一望し、縦横無尽に語り尽くす(重里徹也✕助川幸逸郎)
秋の訪れを感じる少し肌寒い10月の夜。ジュンク堂書店池袋本店にて、『平成の文学とはなんだったのか』(はるかぜ書房)の刊行を記念したトークイベントが開催された。
登壇者は著者である文芸評論家で聖徳大学教授の重里徹也氏と、日本文学研究者で岐阜女子大学教授の助川幸逸郎氏。膨大な読書量と、書籍にとどまらない時代の空気からポップカルチャーまで幅広い知識を有するお二方によって、平成の文学はいかに語られたのか。
伊藤計劃が描くディストピア
まずは、助川氏が平成の文学「十選」にも挙げている伊藤計劃によるSF『ハーモニー』から口火は切られた。
「『ハーモニー』の世界では、テクノロジーが政治経済と結びつき、グローバル化している。それは矛盾を昇華した、健康的な世界ともいえる。ディストピアともユートピアとも決めつけないで未来世界を描いているのが伊藤の魅力」という重里氏の指摘に対し、「一見すばらしい世界に耐え難いものが描かれているところがすばらしい」と助川氏。「個人的な意識」をなくしてしまった世界で、感情的なものを呼び起こさせる仕組みになっている、と続けた。
さらに、「性について伊藤計劃が言及しないのはなぜか。疑問を感じた」との重里氏の問いかけには、「単に性に関心がないのかもしれない。伊藤には思春期の少年が持つような感覚があったのだと思う」と助川氏は考察した。助川氏の『ハーモニー』好きは相当のようで、語り口にも熱が入る。
また、『ハーモニー』は、小学6年生の甥っ子に「幸逸郎おじちゃんがいちばん中二病だ」と言われるくらい50歳のおっさんを思春期に戻してくれる小説、という小噺を披露し、会場を笑わせた。
ミステリー的な枠組のある小説が平成的
次に、純文学の可能性を広げている作家として、髙村薫や平野啓一郎の名が挙がった。
重里氏は髙村薫に惹かれる理由を、「ミステリー的な枠組みを超えて、時代の無意識を代弁する作家。社会全体を背負う作品は平成文学の代表ともいえる」と評した。さらに、2018年に刊行された平野啓一郎の『ある男』については、「主人公の弁護士が私立探偵の役割を担い、謎を生きていく。さまざまな人間模様を生き抜いていく姿に味わいがある」と称賛した。さらに、平野が提唱する「分人論」にもハードボイルドがフィットしたと指摘した。助川氏は賛同しつつ、「中年男性はどこへでも行ける。そのリアリティーがミステリー、ハードボイルドとマッチしている」と探偵小説の特徴にも触れながら解説した。
平野本人について助川氏は、「実は天才タイプではなく、不器用なりに成熟していく作家」と表現し、「これまで(作品によって作風をがらりと変えるタイプの)コスプレ作家の印象があったが、分人論を提唱したことでかけがえのない作家となった」と評価した。小説では、『マチネの終わりに』で一皮むけた感があるとのこと。
重里氏は、平野が新聞連載で作品を深めたことを指摘し、夏目漱石や吉田修一も例に挙げながら、「新聞という大衆に直接に接するメディアで仕事をすることで、作品が内側から変化したともいえるのではないか」と自説を展開した。
豊穣の世代の作家たち
第130回(2004年)芥川賞をダブル受賞した綿矢りさと金原ひとみについて、重里氏はこの二人に青山七恵、白岩玄、島本理生らも含め、神戸連続児童殺傷事件の加害者「少年A」と同世代であることに触れた。助川氏は同時代に活躍したミュージシャンの鬼束ちひろ、Cocco、UAなども例に挙げ、「世界に対して恨みを持っている世代」と表現した。ちなみに助川氏はCoccoの大ファンだ。
さて、綿矢については、性器を使わずにイマジネーションの中でセクシャルな世界を描くタイプの作家であり、好きな相手を蹴りたいと思う、その感覚が「本能的にずれている」とし、そこをむしろ評価した。
重里氏は、ある作家の言葉を引用して「綿矢は吉本新喜劇的」であると言及。恋愛以前の、性愛とは違う身体的な部分に吉本的な感性を感じると持論を展開した。このことは綿矢が関西出身であることとも結びつく。さらに、綿矢と金原が出てきたときに、「ワタキン世代」という言葉を流行らせようと思ったほど新鮮だったと述懐した。
また、助川氏は綿矢と金原に加え、島本理生も同様に「男性の身体的パーツや仕草に惹かれる傾向がある」とした。これは助川氏の世代の女性が、「いい男といる自分に興奮を覚える」特徴とは大きく異なるとのこと。いずれも女性の身体的欲望をリアリティーをもって描くことのできる作家であり、これからの作品にも高い関心を寄せているようだ。
世界における日本文学の評価
重里氏は、吉本隆明から「人間には隠れ家が必要です。以前は街のあちこちに隙間のような隠れ家があったけれど、今では漂白されてしまった。現在、隠れ家的なものがあるとしたら、バーチャルなネット空間の中でしょうか」と聞いた経験を披露した。
ここから発展し、助川氏は「インターネットによるアクセスを制限している中国は全く現代的ではないが、研究費は多く使える。閉鎖的な環境の中で、どれだけ研究が進むかに注目したい」と言及。さらに、そんな中国でも村上春樹への関心が高いとし、アジアでは『ノルウェイの森』の人気が高いが、ヨーロッパでは『ねじまき鳥クロニクル』の評価が高い点も興味深いとのこと。
また、本イベントの翌日(2019年10月10日)に控えたノーベル文学賞にまで話題はおよび、重里氏は「カズオ・イシグロが2017年に日本人枠で受賞したため、あと5~6年は日本人の受賞が難しいのではないか」と予想した。村上春樹や多和田葉子が候補として報道されているが、助川氏は、「海外でも評価されている多和田葉子の『献灯使』は震災後文学としての完成度が非常に高く、多和田さん自身も日本文学の評価を得るため戦っている」と、研究者として応援する姿勢を示した。今後、数年間でこれらの予想がどれくらい実現するのか楽しみである。
不遇の作家から愛される作家へ
続いて、幅広い世代に人気の小川洋子について。『妊娠カレンダー』で芥川賞受賞後、なかなか日の目を見なかったが、『博士の愛した数式』で一気に注目されるようになったのは、「失われたかけがえのないものを描く」という一貫したテーマを、幅広い層につたえる方法がそこで確立されたからだろうと助川氏。震災後、改めて同書を読んでみて、「博士と過ごした日々」と「震災前の平穏な時代」が重なり、涙が止まらなかったという。
「なぜ一人称の作品が多いのか?」という重里氏の疑問には、「”私”が愛おしい。というのが大切な意味を持つ作家だからではないか」と回答。しかし、中には『猫を抱いて象と泳ぐ』のように三人称で書かれた作品もあるとし、言葉を持たない死者、弱者などを描く時は三人称で、個人的なリアルな思いを描くときには一人称と、使い分けているのではないか、分析とした。さらに、「一人称の作品はリアリズム的で、三人称の作品は寓話的になるのでは」とも。「言葉を持たない存在を描くには寓話的な手法が必要。特殊を書いて普遍に至るのが近代リアリズム小説の理想であり、普遍を描いて特殊を表現するのが寓話の王道。小川洋子はそれをよくわかっているから、リアリズム小説は一人称で書き、寓話的作品では三人称を採用する」とも。
最後に、「小川洋子の話で終わると後味がいい」「幸せな気分でトークショーを終えられる」という両者一致の意見で会場の共感を呼んだ。
まだまだいる平成を代表する作家たち
イベント本編が終わり、会場からの質問に答える中で、絲山秋子の名前が挙がった。重里氏は、「地方を舞台にして、新しい共同体のようなものを模索したり、セックス抜きの男女のつながりを描いたりするのが平成的だと感じる。芥川賞を受賞した『沖で待つ』は実に平成文学的」との評価。両者とも、絲山秋子が重要な作家であるのは共通認識のようだ。
また、「歴史小説が入っていないのはなぜか?」との質問には、「平成に入ってから司馬遼太郎を超える作品が出てこなかったというのがでかい。バブル崩壊が影響しているのでは」と助川氏。重里氏も司馬遼太郎を高く評価していて、「司馬は権力の正体を生涯かけて追求した作家。その存在が巨大なため、後から来る書き手がなかなか彼を相対化できていないのではないか」と考察した。
参加者約60名で大盛況に終わった90分のトークショーは、あっという間に終わった。濃密な時間だった。登壇者も参加者も文学愛が強く、会場は熱気に包まれていた。私たちがこれから小説を楽しむうえで、貴重な体験となることは間違いなさそうだ。
ライター/一水埜乃子(いちみず・ののこ)